【3月11日】フランスから震災の体験を振り返る
- 2021/03/12
- フランス生活
ボンジュール、パリパリマセマセのたーしーです。今日は3月11日。2011年の東日本大震災から10年経ちました。今回のブログでは、その日を振り返ってみました。
10年前の出来事なので(過去の出来事という気はまったくしないにせよ)、きっと記憶は曖昧で、ところどころ思い違いがあるかもしれません。それでもその日の個人的な体験をこうして綴り、ただ残しておこうと思います。
***
新宿から渋谷へ、渋谷から新宿へ
就活中だった自分
2011年3月11日14時46分頃。私は電車で渋谷に向かっていました。当時、就活中だったので16時から面接を控えていたからです。
西早稲田駅から副都心線に乗ると、東新宿に着く前に電車が急停止しました。地震だ、とすぐに気づきました。電車に乗っていてもわかるくらいに揺れを感じたからです。とはいえ、たしかに揺れを感じたのものの、それほど大きなものとは思いませんでした。誤解を恐れずに言えば、揺れの大きさから予想すると震度3程度かと思ったほどでした。
電車は徐行して東新宿駅に到着しました。何分か駅に停車したまま、運転再開の様子もありません。地上から渋谷に向かうしかないかと私は電車を降りました。そして、面接予定の会社にメールを送りました。
到着が遅れても大丈夫と会社に言われたことに気を楽にし、新宿から渋谷まで歩いて向かうことにしました。
このとき、私はどれほどの被害が地震によってもたらされていたのか気にしてさえいなかったのではないでしょうか。道には人が溢れていましたが、それほど注意を払いませんでした。「まぁ、東京でこんなに大きな地震ははじめてだからなぁ」と街を眺めつつ、途中でコンビニに立ち寄ったりしながら渋谷を目指しました。
そうして原宿辺りまで歩いた頃、メールが一通届きました。
えー! せっかく、ここまで歩いたのに……と内心思いましたが言い返すわけにもいきません。仕方なく一時間半くらいかけて歩いて来た道を引き返すことに。
すでに夕方くらいだったので、道をゆく人もたくさんいて、足取りには奇妙な一体感がありました。そこで、まだ電車が復旧していなかいことにようやく気がついたような気がします。事の大きさをようやく理解し始めのは、再び新宿に着いた時でした。
アルタ前で足を休めていると、炎に包まれた町が、オーロラビジョンに映し出されました。時間的に、その町は福島だったのではないかと思います。千葉の火災はもっと遅い時間だったように記憶しているので(あらためて調べていないので記憶違いかもしれませんが)。
天災による大惨事の光景。その「リアル」さは、これまでの人生で一度も受けたことのないほどに衝撃的なものでした。
動かない電車、つながらないケータイ
しばらくそこに立ち尽くしていたのですが、どうにかして夜を明かさなければならないことにはっと気がつきました。これだと電車の運転再開の見込みは立たないでしょう。そうだとすると、新宿から歩いて行ける範囲に住んでいる友人に頼らせてもらうほかありません。
思い当たるのは豊島区、練馬区、板橋区のあたりに住んでいる友人たち。ということで池袋方面に歩きつつ、泊めてもらえないか連絡を試みることにしました。
しかし、ここで困ったのが通信の問題でした。メールも電話も、一切つながりません。すでにスマートフォンは普及してましたが、まだライン等のメッセンジャーアプリはほとんどなく、キャリアの電話番号とメールアドレスを利用する方が主流でした。みなが一斉に通信機器を使用するため、キャリアの回線がパンクしてしまったのです。(厳密に言えば表現が間違っているかもしれませんが、おそらく、そんな感じだったのだと思います)
そこで代替の連絡手段として役に立ちそうだったのがSNSでした。当時の私はFacebookとTwitterのアカウントを持っていました。(その日に開いた記憶がないのでmixiとMyspaceのアカウントはもうなかったのだと思います)地震の直後でも特に大きな問題もなく動いたので、これらを使って誰かに連絡を取ることができたらと考えました。
しかし、ついてないことに、Facebookに仲の良い友達はまだいなかったし(使った記憶がないということは、やはりフェイスブックメッセンジャーアプリはなかったのだと思います。あるいはそれほどまでにFacebookを利用していなかったのかもしれません)、Twitterにはオフラインで繋がりのある人は一人もいませんでした。ということで、せっかくのアイディアも早々に放棄せざるを得なくなりました。
そうこうしているうちに池袋に着きました。日も落ち、辺りに闇が広がりつつあります。当然のように漫画喫茶やカラオケは満室です。友人ともまだ連絡がつかないし、足も疲れてきたしどうしよう。途方に暮れていると、奇跡的に一人の友人から返信が届きました。
この声に、本当に助けられました。友人の家まで一時間弱かけて歩いているうちに通信が復旧してきたようで、徐々にスムーズに連絡が取れるようにもなりました。そうして無事に友人に会うことができ、居酒屋で簡単な食事をしました。
その晩、友人の家のテレビからはニュースが鳴り止みませんでした。荒れる海、燃え盛る山。想像を絶する映像の数々を語る言葉を持ち合わせていなかった私たちは、早々に床に就くのでした。
脆い時間、壊れやすい日常
あの日から10年経ちました。当時の私は、自分が10年後にパリにいることを想像していたのでしょうか。余談ですが、10年前に家に泊めて助けてくれた友人も現在フランス在住です。なんという偶然でしょうか。あのときはありがとう。
震災の経験から何かしらの結論を引き出したり、震災を何かしらの意味へと還元してしまうことはおそらく不可能でしょう。だからまだ、こうして当時を振り返ることしかできません。
こうして振り返ってみると、コンビニ、漫画喫茶、カラオケ、居酒屋、報道関係者等々、震災のほんの直後にもかかわらずそこで働いてくれている人がいるというのは非常に驚くべき点であったと思います。
それから未だ言葉にできていませんが、震災やそれにまつわる出来事(特に東京電力関連)が私の考え方に与えた影響は小さくないはずです。
当時の日記を読み返してみると、短くこう書かれていました。
直下型地震一発で未来はぶち壊れてしまう。
脆く壊れやすい時のなかで、自分はこれから何をしていくのでしょうか。吹きつける風の中、答えを探し続けなければなりません。
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