ベルナール・ノエル(Bernard Noël)〜フランス現代詩人を読む〜

ベルナール・ノエル(Bernard Noël)〜フランス現代詩人を読む〜

ボンジュール、パリマセのたーしーです。あっという間に2022年も一ヶ月が過ぎましたが、相変わらず雑多な用事に追われる毎日です。日がな一日、詩について考えているだけとも言えますが。

今日は「フランス現代詩人を読む」というカテゴリの更新です。日本でほとんど知られてないフランスの現代詩人の中には、フランス人でも文学を愛していないと知らないレベルの詩人と、フランスでは超有名なのになぜか日本ではそこまで有名でない詩人がいます。このブログで取り上げたベルナール・ノエル(Bernard Noël)は、後者のタイプの詩人です。もうすぐ一周忌となるこの詩人について、大まかですが、紹介してみようと思います。

ベルナール・ノエルについて

1930年11月19日、南仏アヴェロン、サント=ジュヌヴィエーヴ=シュル=アルジャンスにベルナール・ノエルは生まれます。処女詩集である『身体の断片集』Extraits du corps (1958) から注目を浴びるノエルでしたが、二作目『沈黙の面』 La Face de silence (1967) が出版されるまでに九年が費やされました。

1971年、小説『最後の晩餐の城』 Le Château de Cène が Urbain d’Orlhac の偽名で出版されました(後に、Jean-Jacques Pauvert から1971年に出版された版では、ベルナール・ノエル名義に変わっています)。

このように詩人、作家としてはもちろんのこと、エッセイスト、美術批評家等とノエルの活動は多岐にわたります。それでも、彼の活動に一貫性を与えるのはどうやらポエジーであるようです。

そんなノエルの詩は、ルイ・アラゴン、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、イヴ・ボヌフォワ、クロード・エステバン、ミシェル・ポラック、フィリップ・ソレルス、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダらによって称賛されました。つまり、詩人や小説家から、哲学者・思想家に至るまで、幅広く認められたということです。

また、ノエルはフランスの出版社であるフラマリオンの « Textes » コレクションの担当もしていました。そこでクロード・オリエやマルク・ショロデンコといったフランスの作家だけでなく、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズやエドワード・エリスン・カミングスといった二十世紀アメリカの詩人の詩集出版にも貢献しました。

他方、絵画への愛着も大きく、ノエルは種々のアーティストとの共同制作本を発表しました。それに加えて、ギュスターヴ・モローやマティスに関するモノグラフィー(Hazan)、ダヴィッドやマグリットに関するモノグラフィー(Flammarion)、アンドレ・マッソンに関するモノグラフィー(Gallimard)などにも注目できます。クリスティアン・ジャカールやザオ・ウーキーといった現代フランスを代表する画家との交流もありました。

そんなノエルは、2021年4月13日、オー=ド=フランスはエーヌ県のランにて亡くなります。享年90歳でした。フィリップ・ジャコテの死から二ヶ月足らずで届いた訃報に少なからずショックを受け、友人とともに悲しんだのを今でも覚えています。

このようにさまざまな顔を持つノエルについて、あらゆる角度からの研究が待ち望まれているはずです。特に日本語ではあまり情報がないので、何らかのかたちでの成果報告が増えていけば良いなと感じます。ちなみにノエルの情報については、 Atelier Bernard Noël のサイトが充実しています(フランス語)。

ベルナール・ノエルの « sensure » という概念

ベルナール・ノエルに関する私の興味のひとつは、彼の « sensure » という概念に向けられています。この « sensure » という概念は『言葉への侮辱』 L’Outrage aux mots (1975) で提示されました。

フランス語で「検閲」を意味する « censure » と同じ音をもつこの概念があらわすのは、言葉の持つ意味を取り除くことに対する挑戦と言えます。「検閲」が「発言することの剥奪」であるとするならば、 « sensure » は「意味の剥奪」になるというわけです(したがって、神経的な感覚 « sens » の剥奪ではない)。

以下、『言葉への侮辱』 の該当箇所について、筆者による抄訳にて簡単に確認しておきましょう(なお、以下に引用される l’« inflation verbale » による検閲という考え方は、Ignacio Ramonet の La Tyrannie de la communication (1999) にて再掲されることになります。また、ジャン=ジョゼフ・グーの『言語の金使い―文学と経済学におけるリアリズムの解体』なんかも思い出されますね)。

【試訳】検閲は言論の自由を奪う。沈黙へと至る。だが検閲は言語に危害を加えるのではない。言語の濫用こそが、その本性を捻じ曲げながら、それに対して危害を加えるのである。ブルジョワ権力は検閲の不在に基づきリベラリズムを打ち立てているが、これは絶えず言語の濫用を拠り所としている。ブルジョワ権力の寛容さとは、別のやり方で抑圧を発揮する暴力を隠すマスクなのであり、検閲の場が、もう感じ取られないという結果を導く。言い換えると、言語の濫用によって、ブルジョワ権力は、強制なき権力、「人間」の権力として、つまり言葉の価値を測る公的なディスクールとしてみなされているのである。しかし実際には、それが言葉から意味を剥ぎ取っている。その結果、言葉のインフレーションが生じ、集団内のコミュニケーションを損なわせる。まさに検閲である。おそらく、この隠された効果を明るみに出すために、SENSURE という言葉を発明せねばならないだろう。この言葉は、「検閲」という言葉に対して、発言の剥奪ではなく、意味の剥奪を示しうるのである。

(Bernard Noël, Le château de Chène, Gallimard, collection : L’Imaginaire, 1990, p. 120.)

このようなベルナール・ノエルの « sensure » という概念は、二十世紀初頭の前衛文学グループや、それ以降の文学的実験の問いと無縁ではないように思います。なぜならそういう集団に属したことのある詩人や作家は、言葉の生むリズムや身振り、シニフィアンとシニフィエの結びつき、言語における物質性の問題についてそれぞれのやり方で取り組みつつ、意味の問題について常に考えてきたからです。それゆえ、「意味の剥奪」を企む人たちは、彼らに対して挑戦しているとも捉えられるのではないでしょうか。

さらに、あえて言えば、70年代以上に「言語の濫用」が目立つ私たちの時代では、ノエルの « sensure » に直面する機会が増えてゆくような気がします。言葉と、そして意味とより真摯に向き合い、それらについて考えるためにも、ノエルの « sensure » 概念に注目する必要があると私は思います。