フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」(Mes premières vraies vacances)〜1960年代前半フランスのある空気について

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」(Mes premières vraies vacances)〜1960年代前半フランスのある空気について

ボンジュール、パリマセのたーしーです。もうヴァカンス期間ですね。パリの街には少なくない観光客がやってきているように思います。依然としてコロナ禍という特殊な時代を生きているわけですが、ヴァカンス中にはどんなことが起きるでしょうか。大変な事態にならないと良いのですが。

そんな今日、ヴァカンスにまつわるフランスのポップソングである、フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」(Mes premières vraies vacances)を聞きながらぼんやり考えたことをまとめてみました。

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」(Mes premières vraies vacances)

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」という曲について

シーズン毎に聞きたくなる曲があります。別に季節と直接関係なくとも、たとえば春だったら「ヒア・カムズ・ザ・サン」だとか、冬だったらクロード・フランソワ「ベル、ベル、ベル」とか。おそらく皆さんもあるのではないでしょうか。

夏の場合、私が必ず聞いてしまうのが、フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」(Mes premières vraies vacances)です。題名の通り、歌い手である若い娘が初めてのヴァカンスに発つという内容で、夏にピッタリの曲です。

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」がリリースされたのは1964年8月のことでした。同名のアルバムにも収録されています。この時代のフランスはまさにイエイエ(yéyé)全盛期。同年にはシルヴィ・ヴァルタン「アイドルを探せ」や、フランソワーズ・アルディ『バラのほほえみ』などがリリースされています。

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」の歌詞の特徴

フランス・ギャルと言えばゲンスブールを思い出すかもしれませんが、「初めてのヴァカンス」はゲンスブールではなく、モーリス・ヴィダラン作詞です。女の子の気持ちがよく歌われているように思いますし、少しずつ、本当に少しずつではありますが、女性の解放が感じられるような部分が歌詞にあります。たとえば、以下の部分。

Fini de toujours dire où l’on est / Fini la trempette où l’on a pied / Fini de s’habiller pour dîner /

Bien fini / J’aurai le droit de marcher nus pieds / J’aurai le droit d’être décoiffée / J’aurai le droit d’aller me baigner / Sans bonnet

(試訳)今どこにいるかどんなときでも言うのはおしまい / さっとお風呂に入るのもおしまい / 晩餐のためにしっかり着込むのもおしまい / もうおしまい / 裸足で歩く権利だってあるし / 髪をほどく権利だってあるし / 泳ぎに行く権利だってあるの / 帽子もかぶらずにね

これらの歌詞からは、従来の女性像(女性はかくあるべし)から離れるという歌い手の意志とその姿がうかがえるように思われます。こういったイメージ、そして男性をリードするような女性のイメージは、他のフランス・ギャルの楽曲、たとえば「すてきな王子様」や「天使のためいき」などにも通じているのではないでしょうか。

なお、”Fini la trempette où l’on a pied” という箇所は個人的に聞き慣れない表現でした。”faire trempette” で「さっと水浴びをする」(tremper)と言う意味なので、そこから想像し、上記の試訳としました。そこに足があると言うのは毛剃りまで暗示されているのかもしれません。特に友人に聞いていないので、ひょっとするとフランス人にとっては当たり前の表現ということもあるでしょうし、今度確かめておきます。

「子ども」の解放〜1960年代前半フランスのある空気について

解放の隠喩としてのヴァカンス

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」に宿る60年代前半のフランスの雰囲気として、子どもたちの親からの解放が感じられるかもしれません。この時代の若者たちは親たちにつきまとわれるのに嫌気が差していて、そんな「監視」から逃れたかったのではないでしょうか。この曲の冒頭で、フランス・ギャルは次のように歌っています。

Mes premières vraies vacances / J’en rêvais depuis longtemps / Et cette année j’ai la chance / De partir sans mes parents / Ce n’est pas que ma famille / Soit vraiment collet monté / Mais moi je suis grande fille / J’ai besoin de liberté

(試訳)わたしの初めてのヴァカンス / ずっと夢見ていたんだ / 今年 わたしは両親ぬきで / ヴァカンスに発つチャンスを得たの / べつにわたしの家族が / お堅いというわけじゃないんだけど / でもわたしだって大きくなったし / 自由がほしいんだ

成長するにつれて、子どもたちは、個人的な関心(l’intérêt personnel)を見つけていきます。そうして自由を求め、親元から離れたいと思うようになるのです。こういった「親子」の関係は家族という場にみられるのはもちろんですが、比喩的に、労働の場(つまり経営者と労働者の関係)にもみられるものだと言えるでしょう。

こういった「子ども」が望む解放の欲望が、フランス・ギャルの歌では、ヴァカンスという季節のイベントに重ねられているように思われます。

ところで、このような「親子」の関係を夏の憂鬱とともに歌ったものとしては、エディ・コクラン「サマータイムブルース」(1958年)が有名です。ザ・フーやRCサクセションによるカバーでもよく知られるこの曲ですが、フランス語ヴァージョンとしてダニー・ロガン「夏の太陽」があります。このヴァージョンではひと夏中部屋で勉強し夏の太陽を見られぬ「子ども」の気持ちが歌われており、「親」に縛られた「子ども」像が提示されています。

Et quand je veux danser, le patron me dit : / « Non mon garçon, boulot jusqu’à minuit. » / Toujours le travail, jamais s’arrêter / Je ne vois jamais le soleil de l’été

(試訳)踊りに行きたいときには、ボスが言ってくるんだ / 「だめだめ、お前は深夜まで働くんだよ」 / いつでも仕事、全然休まず / 夏の太陽はまったく見えやしない

一日中仕事(勉強)に追われ、かがやく夏の太陽さえ見ることのできない「夏の太陽」の歌い手は、「親」の言うことを聞く従順な「子」であると言えるかもしれません。これに対してフランス・ギャルの「初めてのヴァカンス」の歌い手は、親なしでヴァカンスに発つのだと明確に述べています(”Et cette année j’ai la chance / De partir sans mes parents”)。これは、興味深い変化かもしれませんね。

「初めてのヴァカンス」、そして68年5月へ?

フランス・ギャル「初めてのヴァカンス」を聞きながら60年代前半のフランスの「親子」の関係について妄想してみました。こんなことを考えたのは、最近アマゾンプライムで話題の(ただし、パリでは結構多く広告を見かけたので話題かなと思ったのですが、周りでは見ている人がいない)「ミクスト」を見たからかもしれません。このドラマは、男女共学の高校をつくる最初期の試みをテーマとしたものなのですが、その舞台となった時代が1963年(1963年9月から1964年の7月にかけて)だったのでした。

そんな60年代前半には、世界史上で重要な国際的なイベントが相次ぎました。62年キューバ危機では核戦争の一歩手前まで行きましたし、そんな中ベトナム戦争が勃発、ヨーロッパではECが誕生しました……。

後半になると、フランスで68年5月の運動が起こります。フランス国内の若者解放を下支えした空気については、まだ調べることがたくさんありますが、「親」から解き放たれることを望んだ「子ども」たちの歌と、68年5月のイベントは無関係ではないのかもしれません。

ある時代とそこで流行したヒット曲(tube)は切っても切れぬ関係にあることがあります。こういう風に同時代の出来事と照らし合わせながらヒット曲をの歌詞を考察していくと、その都度新しい発見があり楽しそうですね。

フランス・ギャル雑誌の画像
フランス・ギャルが亡くなったのは2018年。とてもショックでした。写真は当時読んだ雑誌の切り抜き。