「貧乏人を殴り倒そう」(ボードレール)が危険すぎる現代

「貧乏人を殴り倒そう」(ボードレール)が危険すぎる現代

ボンジュール、パリパリマセマセのたーしーです。今日は、最近あった出来事と、それにまつわるボードレールの一篇の詩に関して書きました。具体的には、SDF(sans domicile fixe、ホームレス)と「貧乏人を殴り倒そう」« Assommons les pauvres » という詩篇についてです。

2017年の選挙キャンペーン中「2018年末までに路上生活者は1人もいないようにする」と公約に掲げていたマクロンが大統領になったにもかかわらず、パリには少なくないSDFの人たちがいます。それと、おととい4月9日に生まれたボードレールにどのような関係があるのでしょうか。

この件についてはブログ記事にしようかどうか悩んでいたのですが、少しでも誰かに届けばと思い書いてみた次第です。

朝のパリ、あるSDFの男が誰かと口論していた

ある朝、パリの南の方の地区を歩いていると口論している二人の男がいた。ひとりは立っていて、もうひとりは道に座っている。立っているのは、スポーツジャージを着たがっしりとした男。座っているのは、SDFの男だ。

白熱した様子で、彼らは何かを言い争っている。触らぬ神に祟りなしだ、とそそくさと前を通り過ぎる私。するとほどなくして、叫び声が上がった。振り返ると、どうもがっしりとした男が、SDFの男の胸ぐらをつかみ乗りかかったようだった。

やめてくれ、やめてくれ

とSDFの男は叫ぶ。拳骨を喰らわせたりはしないものの、ジャージを着た男は掴んだ服を依然離さない。

やめてくれ、やめてくれ

SDFの男は叫び続ける。

まずいことになった。どうすべきかと自分が取るべき決断について躊躇していたのだが、このままではきっと寝覚めが悪いことになると思い踵を返した。すると、私よりも早く、周囲にいた他の男たちのうち数名が問題の二人の方へと駆け寄り、いざこざを止めてくれた。こうしてジャージの男は立ち去り、多かれ少なかれ怪我があっただろうが、SDFの男も最悪の事態を避けたのだった。

ボードレール「貧乏人を殴り倒そう」は危険か

その日以来、私の頭に一篇の詩がつきまとっている。それが表題のシャルル・ボードレール「貧乏人を殴り倒そう」である。

ボードレール「貧乏人を殴り倒そう」という詩篇について

このブログ記事を読んでくれている方には不要かもしれないが、いちおう簡単にボードレールとは誰か説明しておこう。ボードレールとは19世紀フランスの詩人、『悪の華』や『パリの憂鬱』といった詩集で知られている。「モデルニテ(現代性)」の祖としても重要で、以下のように彼は定義づけている。

La modernité, c’est le transitoire, le fugitif, le contingent, la moitié de l’art, dont l’autre moitié est l’éternel et l’immuable.

モデルニテ、それは移ろうもの、つかの間のもの、偶然のもの、芸術の半分をなすものである。なおもう半分は永遠なるもの、変わらぬものがなす。

ボードレール『現代生活の画家』

そのボードレールは、散文詩集『パリの憂鬱』で「貧乏人を殴り倒そう」« Assommons les pauvres » という詩篇を残している。ごくかいつまんでしまえば、物乞いに帽子を差し出された「私」が、彼に飛びかかり、殴り、歯を折り、喉を掴み、頭を壁にぶつけるという内容である。どうしてこんなことを「私」がしたのかというと、以下のような理論の実践のためだ。

« Celui-là seul est l’égal d’un autre, qui le prouve, et celui-là seul est digne de la liberté, qui sait la conquérir. »

他人と平等であるのは、それを証明する者だけで、自由に値するのは、それを勝ち取れる者だけである。

すると最後に「奇跡」が起こる。ひたすら暴力にさらされていた物乞いの老人が起き上がり、「私」を叩きのめすのである。叩きのめされた「私」は最後に次のように言う。

« Monsieur, vous êtes mon égal ! veuillez me faire l’honneur de partager avec moi ma bourse ; et souvenez-vous, si vous êtes réellement philanthrope, qu’il faut appliquer à tous vos confrères, quand ils vous demanderont l’aumône, la théorie que j’ai eu la douleur d’essayer sur votre dos. »

ムシュー、あなたは私と平等です! どうか私の財布を分かち合う光栄をお許し願いたい。それから覚えておいてください、もしあなたが本当に篤志家であるなら、あなたの同胞たちが施しを求めてきたとき、私が苦しみながらもあなたの背に試した理論を、彼ら全員に適応してやらねばならぬということを。

要するに、ぶっ叩いて物乞いたちを奮起させてやれ、それがあなたと私が平等であるということの証拠なのだから、ということなのだろう。だから「貧乏人を殴り倒そう」なのだ。

このブログ記事では19世紀の革命や社会的動乱を振り返りはしないので、このボードレールの詩篇の真価はわからないかもしれない。ただ、こういった詩が、私たちの時代では非常に危険なものになりうるという予感がしてならない。

ボードレール「貧乏人を殴り倒そう」が利用されかねない現代

最初に述べたジャージの男とSDFの男は、「貧乏人を殴り倒そう」の「私」と物乞いの関係に当てはまるだろうか。

――ノン。SDFの男は反撃しなかったし、ジャージの男もボードレール風に講釈を講釈を垂れることなく去っていった。

しかし、恐ろしいのは、上述した「貧乏人を殴り倒そう」がSDFを襲う動機、下手をすると大義名分になりかねないということだ。

言うまでもないがボードレールの詩は暴力を肯定するものではなく、平等を謳ったもののはずだ。ここで登場する暴力は、いわば文彩のひとつであろう。

だが、「貧乏人を殴り倒そう」のごく表面だけに目を通し、テクスト全体ではなくその一部を記憶に留め、即座にわかったつもりになってしまうと、あたかもそれが暴力の肯定に聞こえてしまう可能性があるのではないだろうか。即断即決が美徳とされ、何事もやったもん勝ちな私達の時代では、ボードレールが誤読されかねないのではないだろうか。そんな風に思えてならないのである。

もし件の男がボードレールの詩の実践として暴力を働いていたのなら、と考えるとぞっとしてしまう。それが単なる私の行き過ぎた妄想なのだとしても。

最後に

文字通りに読まれることさえなしに、限りなく都合よく利用されかねない一篇の詩。あるいは文学。今回の事件を通して、ボードレールのような詩人の作品があまりにも危険になりかねない現代を私たちは生きているのだと感じた。生前、発禁処分を受けていたボードレールが、再びその対象になることがないよう願うばかりである。

……あるいはやはり、やや疲れている私の妄想なのだろうか? 今回ばかりはそうであってほしい。