【フランス】デンベレとグリーズマンの人種差別的動画を見て思ったこと

【フランス】デンベレとグリーズマンの人種差別的動画を見て思ったこと

ボンジュール、パリマセのたーしーです。朝起きて調べ物をしているときに、バルセロナのデンベレとグリーズマンが人種差別的発言か、というニュースを読みました。発言元の動画も見てみて、そこから思ったことについてブログにまとめてみました。

デンベレとグリーズマンの人種差別的動画の問題点

問題とされている発言

問題とされている発言は特に以下の3つ。

(a) « Toutes ces sales gueules pour jouer à PES mon frère. »

(b) « Put**n, la langue. »

(c) « Vous êtes en avance ou vous (n’)êtes pas en avance dans votre pays ? »

日本語に訳出するなら以下のようになるでしょうか。

(a)「お前な、PES(※1)で遊ぶためにこんな汚ねぇ面がそろってるんだぜ」

(b)「クソ、この言語だよ(※2)」

(c)「お前らは先進国なんじゃねえの、違うのか?(※3)」

※1 サッカーゲーム、ウイイレのこと

※2 わからねぇ、的な意味だと思われる

※3 どっちだよ、的な感じだと思われる

人種差別的かどうかは決めがたい?

正直に言えば、これだけではデンベレの発言(とグリーズマンの態度)が人種差別的なのか、それとも人種差別とは無関係なのか、どちらかだと決めがたいのでとは思います。

まず、メディアが取り上げているようにアジア人(あるいは日本人)差別と言われればそうだとも言えるかもしれません。事実、そう捉えられても仕方のないような言葉遣いではあります。捉えようによっては « toutes ces sales gueules » を「醜い顔」とみなせる可能性はゼロではないでしょう。

その一方で、これは若者言葉だから人種差別じゃないよと言われれば、まぁそういう解釈もありえるかなと言えるかもしれません。場合によっては、これくらい日常的に聞こえてくるレベルだし、ちょっと若い友人がこういう話し方をしてても気にしないでしょう。« Put**n, la langue. » を「後進国の言葉」と訳すのは、少々やりすぎなような気がします。

もし人種差別の意図はなかったとしても、「若者はこうだから」とはしたくない

そうは言っても「フランスの若者はだいたいこんな感じよ。大げさに騒ぐほどのことでもないでしょ」という風には思いたくないというのが正直なところです。それが許されるなら「フランスのおっさんはだいたい移民嫌いだよ」とか「日本のおっさんはだいたい女性を見下しているよ」みたいな言葉で、それぞれの問題に納得しなければいけないのかという話になりかねないからです。何かを大きな集合でひと括りにし、個々の問題を見えにくくしてしまう暴力的な単純化には抗っていきたいと思っています。

いずれにしてもこれだけメディアで取り上げられているので、デンベレとグリーズマンは何らかの返答をせざるをえないのではないでしょうか。そうして少しずつ文脈が整ってきたところで、あらためて発言が意味するところについて考えられればと思います。

価値観のぶつかり合うグローバル社会を生きるということ

ところで、私たちの時代では、さまざまな発言が反人種差別的観点から批判されうるということは強く意識しておいていいのかもしれません。それは全く、私たちが多種多様な価値観のぶつかり合うグローバル社会を生きているからに他ならないでしょう。

フランスの哲学者アラン・フィンケルクロートは著書『思考の敗北』(Alain Finkielkraut, La défaite de la pensée, Gallimard, 1987)の中で、文化の統合のためには〔その他の地域の、ここでは特にヨーロッパの〕集団意識は支払われるべき対価であるのだろうか、といったようなことを書いています(※)。人種差別に屈したりそれを許容することなく、かつ極端な反人種差別主義によって他者を新たに支配することもなく、お互いの文化を認め合うためにはどうしたらいいのでしょうか。言い換えれば、それはどのように「他者」を認めるかということなのでしょう。これは非常に複雑な問題なのですぐに答えを出せるわけもありませんが、それゆえにずっと考えていかなければならないことであると言えるでしょう。

それがラシスムであるかどうかは一旦おいておいて、「他者」へのリスペクトが欠けているというのは、傲慢さ « arrogance » からくるのだと思います。ですので、まず批判されるべきはその傲慢さ « arrogance » であるような気がします。

私も傲慢さ « arrogance » をももってしまう時がないとは言い切れません。そういう時は、「他者」に嫌な思いをさせてしまっている可能性もあります。私は、そうなりたくありません。

(※)ちなみにフィンケルクロートは、フランス革命以降の「国民」「離郷」 « déracinement » についても思考を巡らせています。彼の発言すべてに賛同はしかねるものの興味深いです。

翻訳ひとつで意味の取り違い起き、取り返しがつかなくなる可能性がある

ところでこの問題にまつわる諸々において、間違いないと言えるただひとつのことがあるとするなら、とあるブログで « Ils ne sont pas hontes ? » とデンベレが言っていると書いてありましたが、そうではないだろうということではないでしょうか。

« honte » は名詞で、成句になると « être » ではなく « avoir » を取ることが多いです。« avoir honte de qc. / qn. » 「〜を恥じる」ということです。« être la honte de qc. / qn. » という成句もありますが、この場合は « être la honte de sa famille » で「家族の面汚しだ」といった風に使われます。

ですのでデンベレの発言は、聞き取りにくいですが、 « T’as pas honte ? » 、あるいは « Ils (n’)ont pas honte ? » じゃないかなと思います。繰り返しになりますが、聞き取りにくいので、これも確かではないですが。

人種差別かどうか決めるのではなく、最後はフランス語の話になりました。白か黒かを簡単に決められない今回の問題のような複雑な話は、意見を持つのも意見をするのも難しいと思います(もっとも、それが疑いようもなく人種差別だと言えるような問題も世界中にあふれているのは事実ですが)。それに比べて、言葉の、特に外国語の間違いは明らかであることが多いのでまだ楽だと思います。

上で指摘した間違いそんなに大局に影響するものではありませんが、翻訳ひとつで意味の取り違いが起きてしまい、もともとの表現からは離れてしまったところに別の問題がつくられるということが私たちの時代では起こりやすいです。ひょっとするとそれがポスト・トゥルースの時代ということなのかもしれません。外国語での表現ひとつ理解するためにも時間をかける必要があるし、まずは言葉に対して謙虚でありたいなと思いました。もはや人種差別の話とは関係ないですけどね。